〔いま〕

毎日起こる、あれこれ。
政治も、経済も、文化も、みんな同じ。
私たち、一人ひとりがどう捉えるか。
自分ゴトにしていく、楽しみ。


おかねのメモリ、いのちのメモリ

SPACなんていう略語で、いかにも専門的。big nameも関わってるなら安心安全!と思うほうが、ナイーブ=お人好し。
今さらながら、ですが。「おかね」は道具でしかありません。
もちろん、とてもパワフルなお道具です。
でも所詮、道具はどうぐでしかない。
大事なことは、その道具で、どんな人生を築くのか、過ごしたいのか、送るのか、だと思います。一人ひとり、違っていて当たり前。声も、顔も異なるように!
「おかね」の目盛りと、ヒトとしての「しあわせ」の目盛りは必ずしもシンクロなど
しないのです。「手段」でしかない「おかね」を、人生の「目的」にしてしまいガチなこれまでの日本社会、いや地球社会全体こそ、悲劇であることも、このコロナは静かに
語りかけていると思います。
『いのち』のメモリ。これはみんなに等しく、ひとつずつ。それしか、ありません。
格差が広がる昨今。大事なことは、「格差是正」より、「おかね」の多寡(多い少ない)で「教育」や「医療」、つまり「いのち」への基本的な支えが極端に異なってしまう社会構造を是正することだと思います。
目の色変えて道具を追い求めても、所詮、もっともっと病と不安病の合併症かな。
3・11には、やはり今、生きていられている「いのち」のことを、しっかり感謝しながら考えて生きたいと思います。
あなたも、ぜひ…..

#いま

「セレブSPACに気をつけて」 米SEC、個人に注意喚起(日経電子版2021/3/11 会員限定記事)


ハリス氏が国連デビュー 「女性の地位は民主主義の地位」について

国連に「女性の地位向上委員会」がある。まずは、このことの重さ。言い換えれば、女性の、社会的存在での「軽さ」。だから、向上させなければ!と、第二次大戦後60年以上続けてきて、漸く初めての女性副大統領が生まれたのが、去年。先進国と呼ばれるアメリカで。
ホワイトではなく、父はジャマイカ、母はインドからの移民の子。
昨年、2020年は、米国憲法で女性の参政権が保障されて100年目だった。カリフォルニアの司法長官を経ての副大統領。輝く笑顔とともに、明快で、力強い就任演説に、アジアのハジのtokyoでも感動したのを思い出す。
時代を変えていくには、「時間」がかかるのだな、と。
でも、同時に、ヒョイと敷石を跨ぐように、新たな時代へと歴史を飛び越える力も、ヒトは持っている、と思っている。
民主主義の疲労については、また、タイミングをあらためて。
まずは、地位の高かった(とされてきたor 思ってきた)「男性」が、ホントに偉かったの?幸せだったの?何考えてきたの?.このままでいいの?…
についての再考察、点検から始める必要があるのだろうと思う。
一人として、お父さんから生まれてきたオトコのヒトはいないのだから。
「いのち」の「繋がり」という視座で未来を志向していかなければ、地球という星に明るい明日は来ないだろうと信じている。
あなたのおとーさんと、おかーさんは仲良しでしたか?

#いま

ハリス氏が国連デビュー「女性の地位は民主主義の地位」(朝日新聞デジタル2021/3/17)


輝いて生きよう! ー楽しく生きるためのキーワードは”笑顔”と”感謝”

2003 年「Club Unisys」9月号 ユニシス広報誌
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ユニシスで「価値創造委員会」のメンバーだったご縁でのインタヴュー記事。
まだまだ、ICTなどという言葉も、それが想起させる「未来的」社会への不安や期待もなかった時代。インターネット、という世界が、なにがし「新」ルールをもたらしていくだろう、くらい。その業界のリーダーカンパニー内の社員の方達に、だからこそ、お伝えしなければ、と思いながら「いのち」の軸をお話しした思い出。「道具」でしかない「情報技術」ではありながら、やはり、その出現において、「メディアイズ メッセージ」。道具そのものが、社会変革の主導者にもなる事実。だからこそ、心して、作り手としての社員の皆さんに、いのちへの「志」とか「魂」を持ち続けて欲しいと。

スタンレー・キューブリック監督「フルメタルジャケット」試写会の招待手紙

ちょっとだけ、自慢げに…。と言っても、スタッフが書いているのは、十二分に承知のスケ。ですが、かの、スタンリーキューブリック監督からの、これは本物のサイン入りのお手紙をいただいたので、きゃ〜♡。
ちょうど婚約を決めたトキメキの時代とともに、ドキドキ嬉しかったことをご報告メール、です。「時計仕掛けのオレンジ」「シャイニング」は衝撃的でしたが、何と言っても「2001年宇宙の旅」。人間の意識や心と表現される様々な「ファンクション」の領域の広がりを教えてくれた監督です。
映画好きで、「クロワッサン」や「エル」等の雑誌で映画評を書いていたこともありました。

#いま

1988年スタンレー・キューブリック監督の招待手紙  

コチラから  

野中ともよ教授デビュー

1987年「日刊スポーツ」7月  
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教授、という肩書きをいただき教壇に立つようになってから、40年近くなるのかしら..と、ため息をついて発見した、新聞の記事。
女子大学の学長でありながら、シングルマザーとして出産。そのまま学長職を務めるその生き様に、ひどく感動。日本の教育界にも、こんな女性が!また、その彼女を支える大学の経営陣や先生方の存在があることに大いに衝撃を受けた。
そのことに大いに動かされて、紹介され、教壇に。若いエネルギーに溢れた学生たちにも、逆に、たくさんの力をいただけることを学び始めた。

#いま

「スポーツスペシャル」の可能性を求めて

あの「Number ナンバー」からの取材依頼を受けて、一同、オーっ!やりましたね〜。と打ち合わせ室で手を叩いた。それまでフジサンケイグループの「プロ野球ニュース」しかなかった夜のスポーツ番組に新風を、と始めた「サンデースポーツスペシャル」だっただけに。
とにかく勝敗は正確に。でも、その裏にある「人間模様」にかならず光を当てよう!を合い言葉に動き始めた頃だった。人生を賭けて、そのスポーツに挑んでいるたくさんの男たちや女たちに現場でお会いできる、貴重な体験をさせていただいた番組でもある。

#いま

1985年「Number ナンバー」12月 
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海外ウィークリー

嗚呼、懐かしきあの時代!と言いたくなってしまいます。「とらばーゆ」発刊前から、そのコンセプトメークに携わっていたご縁での依頼を受けた記事。学生時代のアルバイトで「減点パパ」という、確か日曜日夜のお笑いファミリー番組のうちのコーナーの取材と脚本書きをしていたNHK。その後「600こちら情報部」という、これも、NHKとしては初の試みとして「報道局」と「番組制作局」という、まるで別会社のように、仲の良くない部局(笑)が共同で作り始めた夕方の番組のリポーターに。ダイアナ妃となるチャールス皇太子とのご成婚のリポートをしたことがきっかけになり、この年、報道局内の「外信部」の番組でキャスターとしての仕事がスタート。
いつも、新しいことにチャレンジする心意気に溢れる仲間や先輩に恵まれていたことに感謝です。いずれの番組も「会長賞」をいただいた記憶があります。

#いま

1982年「とらばーゆ」7月号
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