WORKING:はたらく

〔働く〕

ライフワーク的な意味での
「はた」を「らく」にする活動



  • ラストシーズンの福岡、圧巻のプレーを発揮できる理由は

    https://www.facebook.com/tomoyo.gaia/posts/174221281370205

    祝!本当に素晴らしいエネルギーに感謝です。
    福岡さんの頑張り、そしてONE TEAM Wild Knights!! World Cupはもちろんのこと、以来、重たい空気の漂う🇯🇵に、様々な希望と勇気をくれた「ラグビー」というスポーツと、プレーする人々の素晴らしさ。心からのおめでとうございますを、贈りたい。
    この日本一。👏👏👏!弛まぬ努力と、1日も欠かさず、目標に向かって、時には血を吐くほどの鍛錬を続ける様子….ひと昔前にも、ずっと見ていた。群馬の三洋魂を支えてくれていた存在だった。四半期ごとの数字しか興味のない視座には、無用の長物、無駄の塊にしか見えなかったのだろう。カネクイ虫、ソウギョウ者ノシュミ….廃部せよ。薄く笑いながらのバリゾーゴンは今もしっかり耳に残っている。
    ありがとうWild Knights。またひとつ、嗚呼頑張ってよかった、とあの頃を偲べる、今日に出会えている。

    ラストシーズンの福岡、圧巻のプレーを発揮できる理由は(朝日新聞デジタル2021/5/22 会員記事)

  • 1980夏。NHK「トランスカナダハイウエイーカナダ横断の旅」取材の旅

    https://www.facebook.com/tomoyo.gaia/posts/122184509907216

    1980夏。NHK「トランスカナダハイウエイーカナダ横断の旅」取材の旅。
    ディレクターとカメラマンと三人のみ。三脚はもちろん、重たいものを自ら。交渉も!「働くとは、ハタをラクにして差し上げられること」幼い頃から祖母に言われていた言葉が、しっかり身になった夏でもある。若いって素敵。
    ムダなことなど、ひとつもない!全てが学び

    😄

    同じくカナダ横断番組で。カルガリースタンピードの取材。女子アナ、などという文化?も言葉も生まれるずっと昔。タレントさん、という感覚など一切なく、ひたすら荷物持ちからスケジュール遂行まで。楽しく肉体労働を駆使しながら、デイレクターとカメラマン(何しろフィルム!!)とで作り上げる皮膚感覚を学びました。撮り直し?とんでもない!フィルム勿体無くて。笑。だから、緊張感こそがリポートをしめる力になりました。

  • 1985新番組、初代キャスター3人組

    https://www.facebook.com/tomoyo.gaia/posts/122191499906517

    1985新番組、初代キャスター3人組。懐かし過ぎるポストカード。
    NHK はじめての1時間スポーツ番組として。世界のスポーツふくめ、アスリートの個に焦点をあてた報道を!っと。
    星野仙一さん。アニキなのに、いつも呼ばれる時は、”ともよねーさん”! でした。天国行き、本当に早すぎます!大塚範一さんも、無理しちゃダメでーす。
    今も続いてくれる、嬉しい番組。

  • スペシャルインタビュー:王貞治さん

    2012年「三井広報委員会 設立40周年記念」

    三井グループ広報委員会の40周年を記念するスペシャルインタビュー。
    NHK、サンデースポーツスペシャル時、お世話になっていた王貞治さんと嬉しい再会。すっかりお元気そうなお姿に当時のエネルギーを思い出す。
    重厚長大からサービス業までそれぞれに異なる職種でグローバルに展開する三井グループを、王さんは、野球も同じ。全く違う個性が、投げる人、打つ人、そして守る人のチームワークが整ってこそ、ワンチームになると例えてくださった。
    三井不動産のアドバイザリーボードを長く勤めていたこともあり、ソフトバンク球団の取締役会長をおつとめになる王さんに経営者としてのお話も伺った。
    また、生まれ変わったら何になりたい?の王さんのお答え、伺ってしまいました…。

  • 一緒に考えるスマートデザイン

    2012「日経デザイン」2月号

    https://tomoyononaka.com/wp-content/uploads/2022/12/925e299a8f404e2b6723d27735814d89-734×1024-1.jpg

    今も変わらぬ、私の人生の基本の「き」!
    高校時代にアートの世界に進みたいな、とも心のすみっコで思っていた日々。どんな立場で、どんな仕事をしていても、ジャーナリストでも、CEOでも、呼び名はなんであれ、私の中では、いつも「デザイン」という言葉があった。それは、「統括、総合的視座と、部分の調和」であったり、でっぱりであったり、という「思考」「創造力」「オリジナル」の総和としての、ハードとソフト。そんな、領域を跨ぐ取材をしてくれる媒体などなかった時代に、とても、印象に残る、大切な記事。

  • NPO法人ガイア・イニシアティブ

    NPO法人ガイア・イニシアティブ

    ガイアとは、ギリシャ神話の大地の女神の名前です。科学的に証明もされている『ガイア理論』とは、ひとことで表現すれば、この地球という惑星はひとつの有機生命体である、ということ。普通は頂点にヒトを置く、動物界が主人公で、植物はエサ・・・。そんな雑パクなイメージが浮かびますが、全てのいのちあるものは、各々に重要なひとつの要素と役割分担を背負って、各々のための使命を果たしホメオスタシスを形成しようとする構成員なのだ、という考え方です。提唱者のラブロック博士とは、龍村仁監督を通じて20年に近いご指導をいただいています。
    「このままではいけない。でも何をしたらいいのか解らない・・・」誰もが思うことだと思います。だから、いろんなプログラムを用意しようと立ち上げたNPOです。

    NPO法人ガイア・イニシアティブ

  • SANYO Think GAIA

    Think GAIA(2007Mar)

    SANYOの掲げたビジョン「Think GAIA」のパンフレットの一つです。

  • 輝いて生きよう! ー楽しく生きるためのキーワードは”笑顔”と”感謝”

    2003 年「Club Unisys」9月号 ユニシス広報誌

    ユニシスで「価値創造委員会」のメンバーだったご縁でのインタヴュー記事。
    まだまだ、ICTなどという言葉も、それが想起させる「未来的」社会への不安や期待もなかった時代。インターネット、という世界が、なにがし「新」ルールをもたらしていくだろう、くらい。その業界のリーダーカンパニー内の社員の方達に、だからこそ、お伝えしなければ、と思いながら「いのち」の軸をお話しした思い出。「道具」でしかない「情報技術」ではありながら、やはり、その出現において、「メディアイズ メッセージ」。道具そのものが、社会変革の主導者にもなる事実。だからこそ、心して、作り手としての社員の皆さんに、いのちへの「志」とか「魂」を持ち続けて欲しいと。

  • 第27回経済界大賞フラワー賞

    2002年「経済界」2月号

    『経済界』から女性経営者としての表彰としての「フラワー賞」をいただいた2001年。証券会社のシンクタンクの理事長職に就き、新しい時代の金融機関のシンクタンクのあるべき姿を模索しながらの改革を任され、試行錯誤。その活動が認められたことが、とても嬉しく、大きな力をいただいたことを、昨日のことのように思い出す。マイノリティー故に、「女性経営者」というカテゴリーが、必要だった時代。現在では、この「フラワー賞」は、もう存在していない、と伺った。良いことだと思います。

  • ジャーナリストをめざす人へ

    2000年「2001年度入社案内 日本経済新聞」 

    日経新聞の翌年度新入社員募集のための、別刷り特別版。一面に、田中直毅先生と。当時の日経には、こんな記事(真正面から事実を問いただすスピリット・オブ・ジャーナリズムこそ記者魂だ、と語る)を載せる姿勢があったんだ!と、感動すら覚えてしまいます。日本最長期政権を経て、今、2021年の日経たるや、まるで政府の御用新聞のテイ。経済界の御用聞き、という側面は否めない出自ではあるけれど、これほどまでに現行の政治へのチェック機能を果たさないメディアは、もはや、看過できない、を超えて、国民への犯罪的所作振る舞いと呼ばれても仕方ないのでは、とすら思えてきてしまいます。”No Journalism, No Democracy” という言葉がある。蓋し名言というべきか。

  • 新聞を読んで
    -政策決定の過程を描く報道に拍手-

    1999.12.19東京新聞

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    新聞に掲載されたコラム「新聞を読んで」1999/12/19の記事です。

  • 驚くよりも、怒るよりも、
    唖然とさせられるこの国

    「経済界」2001年11/20号

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    「経済界」に掲載されたコラム「驚くよりも、怒るよりも、唖然とさせられるこの国」2001/11/20の記事です。

  • 新聞を読んで
    -じっくり考えたい「事実」「公正中立」-

    1999.9.26東京新聞

    https://tomoyononaka.com/wp-content/uploads/2022/12/45884e22711e9ca0fc2a09f904b760c0-834×1024-1.jpg

    新聞に掲載されたコラム「新聞を読んで」1999/9/26の記事です。

  • 実力で生きる

    1996年「F-PaL」7月

    富士通経営トップのアドヴァイザーを務めていた会社の社内報インタヴュー。当時は、働きながら、でも、子育てをメインにおく、という考え方や生き方を指向したくても、それは二項対立すべき選択の問題、と、自ら考えてしまう女性社員がほとんどだったことを思い出す。

  • 「政(まつりごと)」という知的サービス業の店づくりに励め。

    「潮」1995年7月号

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    「潮」1995年7月号「政治と政治家への注文」に寄稿したもの。
    26年前の参議院選挙の前に書かれました。

  • スタンレー・キューブリック監督「フルメタルジャケット」試写会の招待手紙

    1988年スタンレー・キューブリック監督の招待手紙

    ちょっとだけ、自慢げに…。と言っても、スタッフが書いているのは、十二分に承知のスケ。ですが、かの、スタンリーキューブリック監督からの、これは本物のサイン入りのお手紙をいただいたので、きゃ〜♡。
    ちょうど婚約を決めたトキメキの時代とともに、ドキドキ嬉しかったことをご報告メール、です。「時計仕掛けのオレンジ」「シャイニング」は衝撃的でしたが、何と言っても「2001年宇宙の旅」。人間の意識や心と表現される様々な「ファンクション」の領域の広がりを教えてくれた監督です。
    映画好きで、「クロワッサン」や「エル」等の雑誌で映画評を書いていたこともありました。

  • スポーツは、政治を越えたコミュニケーション

    1987年「日刊スポーツ」7月

    1988年「作戦タイム3」日本体育大学刊      
    記事はコチラ

    スポーツは元気の砦になれるか
    懐かしい、日本体育大学からのインタヴュー。N HK「サンデー・スポーツ・スペシャル」では、その日の勝敗を伝える「スポーツニュース」を超えて、そこにかける「人間」に、熱く、暖かく迫りたい!という思いを持っていた。スポーツは政治であり、経済であり、文化である…」とか「…科学的なトレーニングをぜひ….」とか「…情報は力である…」とか。「なになに道」を超えた新しいスポーツの「あり方」を、日体大がリーダーになって創りあげてください…って。30年以上前から発言していたんだ!と、自分で発見して、いいね!と驚いた記事(笑)。

  • 野中ともよ教授デビュー

    1987年「日刊スポーツ」7月

    教授、という肩書きをいただき教壇に立つようになってから、40年近くなるのかしら..と、ため息をついて発見した、新聞の記事。
    女子大学の学長でありながら、シングルマザーとして出産。そのまま学長職を務めるその生き様に、ひどく感動。日本の教育界にも、こんな女性が!また、その彼女を支える大学の経営陣や先生方の存在があることに大いに衝撃を受けた。
    そのことに大いに動かされて、紹介され、教壇に。若いエネルギーに溢れた学生たちにも、逆に、たくさんの力をいただけることを学び始めた。

  • 被抑圧民族は強い

    「毎日新聞」1987年5月15日

    1987年5月15日「毎日新聞」記事より

    女性キャスターがテレビに出始めたころのインタビュー。

  • 「スポーツスペシャル」の可能性を求めて

    1985年「Number ナンバー」12月

    https://tomoyononaka.com/wp-content/uploads/2022/12/c900ae0b760f6aa7c32379bcbb165104-789×1024-2.jpg

    あの「Number ナンバー」からの取材依頼を受けて、一同、オーっ!やりましたね〜。と打ち合わせ室で手を叩いた。それまでフジサンケイグループの「プロ野球ニュース」しかなかった夜のスポーツ番組に新風を、と始めた「サンデースポーツスペシャル」だっただけに。
    とにかく勝敗は正確に。でも、その裏にある「人間模様」にかならず光を当てよう!を合い言葉に動き始めた頃だった。人生を賭けて、そのスポーツに挑んでいるたくさんの男たちや女たちに現場でお会いできる、貴重な体験をさせていただいた番組でもある。

  • 海外ウィークリー

    1982年「とらばーゆ」7月号

    嗚呼、懐かしきあの時代!と言いたくなってしまいます。「とらばーゆ」発刊前から、そのコンセプトメークに携わっていたご縁での依頼を受けた記事。学生時代のアルバイトで「減点パパ」という、確か日曜日夜のお笑いファミリー番組のうちのコーナーの取材と脚本書きをしていたNHK。その後「600こちら情報部」という、これも、NHKとしては初の試みとして「報道局」と「番組制作局」という、まるで別会社のように、仲の良くない部局(笑)が共同で作り始めた夕方の番組のリポーターに。ダイアナ妃となるチャールス皇太子とのご成婚のリポートをしたことがきっかけになり、この年、報道局内の「外信部」の番組でキャスターとしての仕事がスタート。
    いつも、新しいことにチャレンジする心意気に溢れる仲間や先輩に恵まれていたことに感謝です。いずれの番組も「会長賞」をいただいた記憶があります。