実力で生きる

1996年「F-PaL」7月

富士通経営トップのアドヴァイザーを務めていた会社の社内報インタヴュー。当時は、働きながら、でも、子育てをメインにおく、という考え方や生き方を指向したくても、それは二項対立すべき選択の問題、と、自ら考えてしまう女性社員がほとんどだったことを思い出す。

南の島と幼い命が教えてくれた、 時間とのつき合い方

1997年PHP「THE21」3月増刊号 

人生とは、時間の連続巻物。流産と旅と……巻物を進めていくうちに明らかに、時間そのものへの「価値軸」が変化して行く。だから、人生はやめられない。
いや、やめようと思えば、ヤマル。でも、それは、自らはしないでいい。必ず、いつか死ねるから。それが迎えに来てくれるまでが、勝負。誰にでも平等に、やってくる…….
社会の、とりわけ経済状況によって「何が幸せか」みたいな物差しのめもりが決まってくる。
20世紀最後あたりの記事。まだ、ICTなど、個人の生活には食い込んではいなかった頃。
「テレビを消せばいい!」なんて、言って入られた石器時代笑!

いつもそばにいる空気みたいな存在

1996年「日経WOMAN」12月号

日経ウーマン取材分ーーーーー母と娘
一卵性親子、と呼ばれるほど、よく似ていると言われる。28才離れているが、つくづく「母親とは偉大なものだ」と思う。昭和の戦争の時代を女学生で過ごし、大正生まれの夫と明治生まれの舅と姑に仕え、平成生まれの孫を抱き…。仕事を優先して、流産をした頃の取材記事。
メディアにはあまり登場しなかった母との珍しい2ショット。

アイアン・ジョンの魂

1996年「コスモポリタン」9月号

1996年に翻訳した「アイアンジョンの魂」についてのインタヴュー。
『…男が自分の中の男性性に目覚めて、解放されないと、女も解放されない…』
ハーバードの教授で、詩人でもあるロバートブライ氏のベストセラー。丁度、バリバリキャリア人生から、一転、初心者子育てママの雁字がらめ的焦りと葛藤を経た頃に出逢い、翻訳。スッパリ、きっぱり。今や「LGBTQ+」の時代ですが、当時は、まだ、男らしさ、の対立軸としての女らしい生き方、みたいな色分けが主流で、仕事か家事か。
の真っ只中で、私自身が悶々とする経験があったので、とにかく面白くためになる出逢いをくれた一冊。前書きと、あとがきだけでも、是非。ひょっとすると、今でも少しはやくに立てるかも….。

献(つく)せることの幸せ

1996年「仏教の生活」(平成8年夏季号)

大きく有名な宗教団体ではなく、菩提寺のお集まりで熱心な法話の会に通っていた祖母からの、山盛りの教え。思えば、ダイレクトであったり、母を通じて聞かされた話であったり。
何れにしても、小さきものや、弱き者への暖かい思いやりの心こそが、信心なのだ、ということを、経典ではなく、生き方を通して教えてくれたおばあちゃまの存在は、大きく、いまの私を造っている。

21世紀にはばたくあなたたちへ

1996年「資生堂イベントニュース」冬号

人生は、10代の時に恐れていたほど長続きするものでもなく、 20代の時に期待したほど激しいエネルギーに満ちたものでも なく、30代で憂慮したほどマンネリで変化に乏しいものでもなく、 40代になって恐れたほど短かいものでもない、 と思うのです。各々の局面で勝手に期待したり、危惧したことが、今、懐しく甦ります。 50代には何を恐れ、何を体得するのでしょうか。もっとも、それまで 元気でいられれば、ですが。
 ひとつ、わかっています。永遠の命は誰にも与えられていない、ということ。自分という肉体は限りある容物でしかありません。
 今と、どうガップリ組むか。「ガンバレ、自分」にメッセージを満載しました。是非読んでください。

超快適生活「やる!」

「月刊現代」1997年1月号  

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私の信条の一つ。全く変わらぬ、決まりの価値軸である。迷ったら「やる!」。 まずい、と思った時はやめる、という決心を「やる!」のである。 同じタイトルでエッセイを、というご依頼を、いまいただいても、あまり変わらぬ 文章を書くように思う。短文なので、是非。

ママになって

1991年「マフィン」10月号  

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娘のまりながそろそろ2歳になる頃受けた雑誌の取材。
アメリカの大学院から戻り、そのままNHKの仕事など、いわゆるキャリアウーマンでバリバリ音が聞こえそうな時代には、全く受けたことのない雑誌や、新聞の取材が多くなった頃。被写体としての自分の表情から、穏やかお母さん色が醸し出されて(というより、バリバリ..ではなく、ホンワカワカ漂っているのにびっくり笑!)

まずは自分の井戸を見極めること

1997年「時事英語研究」12月号

基本的に「英語喋り」は、イコール「国際人」みたいな思い込みが、まだ社会的なイメージに定着していた頃のインタビュー。とんでもないですよ!
それは、道具でしかない、ってこと。その道具使いとしては、まず、母国語としての日本語使いのマエストロたれ!一丁目一番地です。「井の中の蛙」の諺で見れば、まずは、生まれ育った「井戸」についてまなべ!で、その上での、道具論としての、英語。しかも、その道具を使って、何をしたいのか?が大事。家を立てたいのか?釣り船作りか?同じノコギリでも、目的が異なれば、磨き方も当然異なってきます。まずは、人間に対する興味、ものや、こと、への好奇心。その大切さをお話ししています。

娘に伝えたいこと

1996年「ミセス」8月号 

娘が丁度小学校に上がった年のエッセイ。20世紀最後の4年間を前にしての思い。彼女が30代になった今も、全く変わらない思いです。ご自分の小学校時代のお写真を、と言われてのワンカット。親になって、初めて知る親の恩…言葉では承知していても、実際の時をon-goingで、実際のこどもと対峙しながら味あわせてもらうと、「倍返し」どころか、何十倍にしても返しきれないな、としみじみしてしまいます。

娘は宝物、そして師でもあるんです

1992年「Be MAM」

新人ママ向け、と銘打った雑誌からのインタヴュー。
これは今も変わらぬ大切な学びそのもの。バリバリの報道現場が当たり前のヒトが、まず、妊娠。これは大事なプロジェクト、とばかりに、何十冊も「妊娠と子育て」絡みを読みあさり、がっつり「良いママ化」を目指したわけです。うふふ。これが全ての誤りの素!それについて、詳しく語っています。男社会(当時はNHK時代でした)の仕事なんて、木っ端微塵!いまの日本社会の金属疲労の素はここでしょうね。

子育てについて

1991年「MAMMY」12月号

まりなが2歳になる少し前のインタヴュー。
単語と単語の組み合わせが始まった頃で、こちらは、まだ「赤ちゃん」の目で見てしまうけれど、どっこいもはや彼女は、立派な「人類」笑。しっかり「自分」を持ち始めて、しっかり「自分」での理解をもとに動いている、ということを教えられる毎日でしたね。「仕事と子育て」を不文律で、しかも、同調圧力目一杯に新米ママに襲いかかる日本社会。22世紀をよりよき「いのち輝く社会」にするためには、一度そうしたメンタル思い込み含めて、きちんとシャッフルした上で、社会装置としてのインフラや制度設計をしないといけないと思います。

東京国際フォーラム

1999年「FORUM Forum」9-10月号 

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JALのファーストクラス用の雑誌への寄稿。大好きな旅。
NHK時代には、地球を何周くらいしただろうというほど、取材の旅、そして、プライベートでも、当時は休みが取れれば飛んでいた。これは、ODAという名の、日本と開発途上のアジア諸外国間の資金のやりとりが、本当に当事国で当事国の市民の方達の幸福つくりに寄与しているのだろうか、という疑問もあって出た、取材含みの旅でした。別の、子供を持つ親世代のための雑誌にに、連れて行った小学校低学年の娘との旅日記を書いた。幼い瞳が捉える、幼い、貧困国の子供達。教わることの多い旅でもありました。